寛容なことは良いことなのか

最近よく考えていること。

あらゆるところで「多様性」「異文化」など、「自分とは異なる人に対して理解を示しなさい」「多様性は認めなさい」と耳にする。

仕事で多様性は重要だと思う。様々な背景を持った人が一つの目標に対して進むと最適解に近づくスピードが速くなるからだ。

なので、自分とは異なる人と円滑にコミュニケーションを取るスキルが必要となってくる。相手への理解をし、相手の立場を尊重した行動を取る必要がある。

では、恋愛においてはどうであろうか。相手が自分とは異なる価値観を持っているとき、それに対して理解を示すか拒否感を示すか。

その人と将来に渡り一緒に居たい、という思いがあるのであれば異なる価値観を理解し尊重することが必要である。一緒に居たいけど、異なる価値観がどうしても気になってしまって一緒に居ることが不可能だ、と感じるときは?

それは、答えがもう出てるのではないだろうか。

一緒に居たければ異なる価値観すらもポジティブに捉えられると思うし、異なる価値観が気になってしまう時点でその人のことを本当に好きでは無いのではないか。

…って、全部自分のことなんですが。。

そう、今とても悩んでいるのです。関係を続けるか続けないか。

相手と対峙するたびに自分の至らなさが恥ずかしいし、逃げたくなる。

「合わなかっただけ」と一言でいえばそれまでなんだけど、「もうちょっとがんばってみよう」「でもやっぱ合わないな」が延々繰り返されている。

例えば私は好きな映画や音楽には中毒者みたいにのめりこんでしまうのに相手は何にものめりこんでいなくて、フラットで、執着が無い。だから好きなものの話ができない。

以前は「違い」が新鮮で、新しい考え方を取り入れてくれている、と感じることができたけど今はただただしんどい。違うエネルギー同士の生命体が一緒に居るには限界が来ている。でも、これを限界と呼ぶのは自分の甘さなのだろうか。こんなことも寛容できない自分はこの先誰と一緒になってもうまくやっていけないのではないか、という不安がよぎり関係をだらだらと続けてしまっている。

こんな状態で相手と一緒に居るのは時間が勿体ないし相手にも失礼だと思うがなかなか一歩を踏み出せない。

年齢が年齢なだけに焦りがすごくて、30歳までに子供が欲しいのに、、と汚いことばっかり考えている。こんな思いの母親じゃ、子供もかわいそうだよね。

 

…と、平日の、明日も仕事があるのに何こんな真夜中に書いてんだろう。

もう寝なくちゃ。寝てる間は嫌なこと全部忘れられる。

本を読む意味を真面目に考えてみる

私が普段本を読んでる意味は、暇つぶしと純粋に本は面白いからである。面白いとは、自分が知らない世界や知らない物事、あるいは知っているけども深く考えないことについて考えさせてくれる機会があるということである。
それ以外、もっと学術的にはどんな意味があるのだろうか?
私が最も本を読んで有益だと思うことは「感情を言語化できる」ということである。
例えばものすごく腹立たしい出来事に遭遇した時にその感情を「言いようのない怒り」などと言っていては勿体無いのである。
体験した人しか持ち得ない感情を言語化せずして、誰に物事を伝えるのか?
「脳へと通ずる血管が膨張し、脳みそは沸騰しそうなくらい怒り狂っていた」と「いつもより少し足音を激しくして歩いてしまうくらい怒っていた」では怒りの程度が違うのは明らかであろう。
これは他者に伝える為の有効手段だけではない。
自分の感情を整理する時にも非常に役に立つのである。
怒っている時に一度怒りを言語化してみてほしいのである。先の例を挙げるならば、恋人に自分の大事な家族への罵詈雑言を浴びせられた場合、あなたはきっと「脳へと通ずる血管が膨張し、脳みそは沸騰しそうなくらい怒り狂う」だろう。(もしかしたら、そんなことを他人に言われても平気だわ、と思う人も居るかもしれないがそういう人はこの文章を読んでいないと信じたい)
その時に、怒りの感情を「私は今脳へと通ずる血管が膨張し、脳みそは沸騰しそうなくらい怒り狂っている」と言語化してみてほしいのである。どうであろうか?文字にするとこの怒りは馬鹿馬鹿しくならないであろうか?
もちろん、怒られたことに関して腹立たしいという事実は覆ってはいないのだが、自分の感情という側面で見ると怒りを言語化することによって怒りのことはもう言語化できたので置いておいて、他の、例えばなぜ恋人はそんなことを言ったのか?などと別の視点から物事を考えることが可能になるのである。
例として「怒り」にフォーカスを当てたが、「悲しみ」や「嬉しさ」など他の感情に関しても同等であろう。
本を読んで、言語化を学び、もっと先の視点で物事を考えられるような人になれるといいな。